木嶋佳苗被告の手記
首都圏連続不審死事件で死刑判決を受けた木嶋佳苗被告(37)。さいたま拘置支所で勾留生活を送る被告は3月の結審後、朝日新聞記者との手紙のやりとりに応じていた。判決直前には便箋(びんせん)20枚に及ぶ「手記」を寄せ、公判まで黙秘を続けた理由などについてつづった。
記者は昨年から木嶋被告に手紙を送っていた。初めて返信があったのは最終弁論(3月13日)の翌日の消印。ボールペンを使い、白い便箋に丁寧に書かれた文字が並んでいた。以降、6回にわたってやりとりが続き、判決の直前に手記が届いた。
手記は1万2328字。丁寧に筆が運ばれており、書き直された箇所はひとつもなかった。
木嶋佳苗被告の「手記」は判決の直前、朝日新聞記者のもとに届きました。過去最長となった裁判員裁判では、3人の男性の不審死をめぐる被告の法廷での発言が大きな社会的関心を呼びました。朝日新聞では事件の重大性を踏まえ、被告の法廷発言を理解する手がかりの一つになると判断し、本人の了解を得て手記の全文を掲載することにしました。
プライバシー保護などの観点から、記述を削除したり実名を伏せたりした部分や、表記を朝日新聞の基準に沿って改めた部分があります。
<以下、手記全文>
「世間に向けて私の言葉で明らかに」木嶋被告手記 1
この度は、心ならずも、世間を色々とお騒がせ致しました。私の事件は、平成21(2009)年の10月末から2年半に渡って、様々なマスメディアで報道されました。それを見聞きした日本中の人たちに、私は有罪との心証を植え付けられたのであろうことが、裁判員裁判の判決に影響を与えるのではないか、との懸念を抱いてきました。
大きな刑事事件は、世論の動きに左右されます。メディアが社会に対して、私を悪者とレッテルを貼り、酷薄非道な過熱報道をすれば、その情報の受け売りが、国民の意見になってしまうのです。メディアのマインドコントロール力の強大さには、寒心に堪えません。メディアによって先入観を植え付ければ、世論は簡単に動かされうることを知りました。
現在もあきれ果てるほどの報道が続いていますが、裁判が終わった今、そろそろこの辺で、法廷では話していない私の心境を述べておいた方が良いだろう、という気持ちが芽生えてきました。
評価や意見は個人の自由ですが、明らかに事実誤認した話が喧伝(けんでん)され、曲解した臆測が乱れ飛び、私や事件について、多くの誤解をされたことに心を痛めています。風説を打ち消すことは出来なくとも、世間に向けて私の言葉で明らかにしておきたいと思いました。
この手記は、判決が言い渡される以前の、評議期間に書いたものです。
私は朝日新聞の記者である藤田絢子さんに手紙を託しました。判決の日まで私が手紙を送った相手は、弁護人と家族以外には藤田さん唯一人なのですが、朝日新聞についてはよく知りません。私は逮捕以前から、報道に全く関心を持たずに生活してきたので、新聞を購読した経験がありませんでした。
警察署の留置場で回覧されていた新聞は、埼玉では産経新聞、東京では読売新聞、千葉では日本経済新聞でしたから今まで朝日新聞を読む機会がなかったのです。拘置所で未決の被収容者は、新聞の自費購入が可能ですが、私は初公判まで全面的に接見禁止になっていたため、新聞購読は不許可の処遇でした。
今回藤田さんとのご縁があり、接見禁止も解除されたので、人生で初めて新聞購読契約をして、今春から晴れて朝日新聞の読者になりました。藤田さんのことは、昨年にお手紙を頂戴(ちょうだい)して以来、気に止めておりました。
裁判員裁判の法廷の傍聴席で、最前列に座っている女性を見た時、一目であの方が藤田さんではないかしら、と直感しました。その後のお便りで御本人であることがわかり、このような形で私の思いを伝える場を設けていただきました。
事件については、法廷で真実を証言しましたが、2月の最終週に体調不良に陥り、被告人質問の反対尋問に対して、きちんと答えることが出来なかったのは、残念で無念です。
法廷では、冷静に粛々と審理が進行するものと思っておりましたので、検察側が大声でまくし立て、威嚇的な態度で追及する主張の在り方には驚きました。
2月27日に○○検事の被告人質問を受けてから、夜になると、法廷で威圧的な言動で追及してきた○○検事が脳裏に浮かび、明日も大声で怒鳴られ恫喝(どうかつ)されると思うと、動悸(どうき)がして眠れず、血圧と体温が上がり体調を崩してしまいました。○○検事の振る舞いに接し、5日間高熱が続き、審理を中断した日もありましたが、病院で治療を受け、翌週には何とか回復しました。
検事の声を聞いて、取調室で警察官から脅迫的な口調で怒鳴られたり、机を叩(たた)かれたり、椅子を蹴られたり、侮辱的な言動を受けた時の恐怖感がオーバーラップしたのです。
暖房設備のない拘置所で健康に留意して、風邪を引くこともなく生活してきましたが、検事の言動には、精神的に強烈なダメージを受け、遂(つい)に体を壊してしまいました。私は1年5カ月警察署の留置場で過ごしましたが、埼玉、東京、千葉どこの警察署でも、人権を無視した不当な扱いを受けました。川越署では、既にマスコミが騒ぎ立てた頃も、接見禁止の被疑者の立場である私を、共同室(雑居)に入れました。
留置場での人間模様は、それまで女性と深く付き合うことのなかった私にとって、興味深いものでした。極僅(わず)かですが、学びとなる有意義な出会いもありました。
浦和の拘置所には、昨年の2月末日、東日本大震災の直前に移りました。震災の復興と共に、私の心の在り方も、正しい方向に導かれていったように感じます。さいたまの拘置支所では、人権を尊重した処遇が守られ、職員は常に温情を持って接して下さり、健やかな心身で裁判に臨むことが出来ました。
警察署では、留置場内での生活から取調室での様子、捜査状況に至るまであらゆる情報が世間に流出しましたが、拘置所生活において私のプライバシーに関わる情報が外部に漏れたことは、私が知る限り一度もありません。これは、警察官と刑務官の職業意識とモラルの問題だと感じます。拘置所職員のお陰で人間らしさを取り戻せたのです。
読書も私に、癒(いや)しと成長をもたらせてくれました。全ての件が起訴されるまでは、1日10時間近い取り調べが8カ月あり、その間は本を手に取る時間をなかなか持てませんでした。取り調べが終了し一段落してから、公判前整理手続きが始まり、裁判までの準備期間に、500冊以上の本を読みました。
勾留生活も、本があれば無聊(ぶりょう)に苦しむことはありません。たまに心痺(しび)れる本に巡り合うと、座右に置いて時折再読しています。現在は週5冊ペースで精読していますので、良書を教えていただければ幸せに存じます。そして、今まで本を含む物品の差し入れや手紙を送って下さった人たちに、この機会を借りて御礼を申し上げます。
「長女である私だけが特異な存在」木嶋被告手記 2
2年半の勾留生活では様々なことを考えました。折々の心境の変化もありました。私の故郷である北海道に、報道陣が大挙して取材合戦を行い、マスコミを賑(にぎ)わせた時でさえ、私の子供時代について正確に把握した人は皆無でした。
私は子供の頃から、誰に対しても深いところまで心や意識を開いてなかったので、他人にわかるはずがありません。常に期待に応えることに必死になって生きてきて、私には伸びやかな子供時代がなかったように思います。私の成育環境についても多くの質問が寄せられました。多分、木嶋佳苗の成り立ちのようなものに興味を持つのでしょう。
弁護人も家族も、メディアからの取材は一切受けていなかったこともあり、情報が錯綜(さくそう)していました。審理後に北海道を取材に訪れた記者たちでさえ、いまだに誤った情報を流し続けていることには嘆息します。結局メディアのインタビューを受ける人間というのは、私や家族とその程度の関係であったということに他ならず、そのような人から聞き出せるものは、噂話(うわさばなし)の域を出ないのです。
私の実家は若い頃に大きく改築しましたが、幼い頃暮らした家は、リビングとキッチンに、子供部屋と両親の寝室と父の書斎の3LDKという割に小ぶりなものでした。私が育った家庭は、お金に困っていることも、有り余っていることもなかったけれど、子供の教育には惜しみ無くお金を使ってくれました。
学校では通信教育で学び、複数のお稽古事の教室に通い、高校時代の長い休みには、離れた都市のホテルに泊まり込み、大学受験予備校の講習を受けさせてくれました。
グルメで料理上手な両親のお陰で、当時の田舎では奇跡的に豊かな本物の食生活でした。父からは読書の楽しみを教わり、新しく購入した本を読み終えたら、父の書斎に持って行き蔵書印を押して貰(もら)い、父と討論した時間は心の糧となっています。
読書感想文や作文を書くと、周囲の人たちはとても褒めてくれたし、賞を受けたりしたけど、自分が書く文章を上手だとは思えなくて、作文は苦手でした。私の作文が目立ったのは、教師や他の生徒の水準が低かったということであって、的確な批評をしてくれたのは父だけでした。
実家のリビングには大きなソファが置いてあり、私はそこに座って本を読むことが好きでした。物心ついた頃からあったそのソファは、数年おきに専門業者に依頼し、布地を張り替えたり修理を重ねて長年使っていました。本格的なオーディオセット、ピアノとチェロとバイオリン、棚に並んだ多くの本とレコードと映画のビデオとLD。鍋や食器、大きなガスオーブンに調理道具。箪笥(たんす)や食器棚、鞄(かばん)と靴。思い起こすと、実家にあった印象深いものは、決して華美ではないけれど、そこには質の高い文化がありました。
子供たちの勉強机や椅子、ダイニングテーブルや用途別にしつらえたラックの数々は、日曜大工が得意な父が作ったものです。4人の子供と両親の6人家族で、明るく賑(にぎ)やかな家庭でした。大人になり実家を離れてからも、4人の子供たちが仲良く助け合って生きてきた絆の強さは、両親の教育の賜物(たまもの)と思います。私の父は、厳格で繊細で知的な人でした。母は天性の自由人で、家事に関しては天才的なセンスと技能を発揮していました。
同じ両親から生まれ一緒に育てられた妹と弟は、至極普通の子供で、天真爛漫(らんまん)に成長し、大学に進み、社会人となり働き、結婚して子供を授かり育てるという真っ当な大人になっています。長女である私だけが特異な存在でした。私の場合、8歳で初潮を迎え、体のフィジカルな成長は10歳でピークとなり、メンタルな面も含め早熟でした。
私は両親の教育方針により、テレビ番組を見ない環境で育ちましたので、私の教養体験のベースは、10代に接した数多くの本と映画と落語とクラシック音楽です。
中学校を卒業する頃には、一通りの古典文学を読了していました。国内外の様々なジャンルの本を選び、取り憑(つ)かれたように本の世界に浸っていましたが、田舎には、私と同じレベルで会話ができる同級生はいなかったのです。父の影響で、小学生の頃から愛読していた朝日ジャーナルで知った立花隆さんや小倉千加子さんについて論議するような友人は、いませんでした。
今回の事件が報道されてから、朝日新聞出版発行の雑誌で小倉さんが、度々私についての記事を書かれていたことは、感慨無量な気持ちで読みました。
中高生時代は、ビデオやLDで7百本以上の映画を鑑賞してます。早熟故の苦悩と、幼い時から自分の本源にある魔性の不安定なものに気付いていたことが重なり、それを宥(なだ)め、コントロールする努力をしてきました。理性の指示するところと、自分の中に渦巻く感情が噛(か)み合わない歪(ゆが)みを持て余していたのです。
私は子供時代に経験したことによって、心の葛藤を抱え、ある時点から普通に生きて行くことを諦めました。常識的であるか、普通であるか、世間の慣習がどうかといったことにとらわれずに生きてきました。屈折した奇妙な価値観を引きずったまま大人になり、自由奔放で浮世離れした暮らしがエスカレートし、ファンタジーの世界で生きることに逃避したのです。
ある種の男性には熱烈な支持をされ続けてきたので、彼らの存在が私の空洞を埋めてくれることによって、何とか毎日をやり過ごしてきました。
「私は、結婚に救いを求めました」木嶋被告手記 3
善悪の認識も欠如していたようです。自分の意識や体が創造する超越した絶対性に固執し続けるうちに、現実社会に対して関心が無くなり、大人としての自覚は鈍磨したまま年齢を重ねていきました。自分の内面の切実な問題を直視する勇気もなくて、業について考え出すと辛くなり、心を寂しく虚(むな)しくしていくばかりでした。
人生や自我を考えた時に宗教の領域まで行かなかったのは、子供の頃から多くの書籍を読んでいたので、人間の本性や宿命に免疫ができていたことと、どのような宗教も辿(たど)り着く頂点は同じであろう、と達観していたからです。特定の宗教に傾倒することはありませんでしたが、信仰心は大切な気がします。
私のような人間にとって、この世の中はとても生き難い場所です。10年以上交際していた男性からモラルハラスメントを受けてきたことも、私の精神を蝕(むしば)み、自分の中の迷路でもがき続ける結果になりました。心の暗闇との絶え間なき闘いは、そう簡単に処理しきれる問題ではありません。過去を考察すると、私は長い間、楽しいけれど実質的には空虚な世界をさまよってきた気がします。
そんな自分に倦(う)み疲れていた私は、結婚に救いを求めました。体調を崩し、病院通いを続け、原因を取り除くことができない自分に呆(あき)れながらも、私は本当の自分をさらけ出して人と付き合うことができなかったのです。自分を持て余し、嘘(うそ)をつくことが意識的なのか、無意識なのかもわからないほどに精神が破壊され、病んでゆくばかりでした。一般女性からのお手紙に、現代の日本社会で女として生きていく大変さを打ち明けられることが多いことに仰天すると共に、これは意外に深刻でシリアスな問題だと捉えています。
いわれのない反感を持たれたことには、孤立感を覚えました。精神衛生の為に、報道は極力見聞きしないように過ごしていても、避け難く自然に耳に入ってくることもあります。私について、事実ではない言説が一人歩きしている報道を知ると、本当に驚きを禁じ得ません。内省し、自分の心の奥底を見詰め、表に出すという作業は、私にとって非常にきついことでした。
長年無意識に自分が蓋(ふた)をしていた感情と向き合い、検証し、さらけ出すことは、勇気も努力も必要でした。私は、他人の気持ちを忖度(そんたく)できない人間だったということに、今まで自分自身が気付いていなかったことを恐ろしく感じました。心奥の暗闇に潜り、自分の悪の根源、歪(ゆが)んだ価値観、狂気を孕(はら)んだ不健全な魂を直視したことで、初めて自分自身を理解し、受け入れることができたのです。
悪というものは、大なり小なり誰にでもあるでしょう。それと向き合う作業は厳しく、孤独で難しい作業です。強靱(きょうじん)な胆力が必要です。私にそれができたのは、信じて守り続けてくれている人たちとのコミュニケーションの深さがあったからだと思います。
上辺だけではない、真心からの愛情、あるいは信頼感が、私の魂を救済してくれたのだと感じています。メンタル疾患に悩む人が多いようですが、心の拠(よ)り所があれば、きっと大丈夫。一番怖いのは自分であって、自分の敵は自分なのだと悟ってから、毎日自分の心の在り方を意識するようになりました。
長い勾留生活の中で、心を平静に保ち続けることは容易ではありません。体調管理も大変です。自己との闘いを繰り返し、感情的にならず、知性と理性を磨いて強く生きて行くことで、充足した甘美な孤独の世界を知りました。
私と同じような立場で、全国の留置場や拘置所等の施設で過ごしている人たちからも、多くの励ましや相談の手紙が届きましたので、辛い境遇にある人たちへのメッセージを贈ります。謝罪と反省をしても、不安や恐怖、焦燥に苛(さいなま)まれることもあるでしょう。人間関係の変質もあるかもしれません。失望し、困難にめげて気弱になりがちですが、どんな状況に置かれても、他人を妬(ねた)んだり、羨(うらやん)んだり、恨まないことが大切です。そして、意識的に感謝することを探して見つけ、有り難いという気持ちを忘れないことが肝要です。ささやかな幸福を噛(か)み締めて、誠実な心構えで生きる努力が何より大事だと思います。
身体は拘束されていても、思考という領域の中では、誰もが平等に自由になれます。私は、心の在り方が変われば行動や習慣が変わり、人格や運命さえも変わると信じています。心掛け次第で自分を変えることは可能です。いつからでも遅くありません。人それぞれに切実な問題があるでしょう。
「負けて諦めてしまったら終わり」木嶋被告手記 4
自分は加害者であるけれど、何かにおいては被害者であると分析できた時に、自分の抱える問題を解決するきっかけが訪れるはずです。
今までのことから学び、反省し、大切なものと不必要なものを把握して、現状に打ち勝つバネにすることができたなら、その時にはひとまわり大きな自分を得られるでしょう。私はいつもこのように考えています。何にでも、負けて諦めてしまったら終わりなのだと。辛い勾留生活を乗り越えたからこその、自己治癒が可能な側面もあります。
私は留置場生活で廃人同然になってしまいました。逮捕直後は混乱し、常軌を逸する報道にうんざりして、ポジティブに考えることができない時期もありました。拘置所に移り、職員の凜(りん)然たる態度の中にある温かい人情に触れ合い、家族と弁護人に支えられ、更生する活力を取り戻しました。留置場では動物扱いされ、人間らしい生活は難しくとも、心と身体を健全に保つことを常に意識しましょう。
健康第一です。体が健康でなくては、自分の罪や悪と深く正しく、目を逸(そら)らさずに向かい合うことはできないのではないかしら。ゆっくりと深呼吸すること、ストレッチングとマッサージで、頭皮から爪先まで肉体を柔軟にして、気、血、水の流れを整えること、清潔に留意すること、よく噛(か)んでしっかり食べて、夜にきちんと眠ること、瞑想(めいそう)すること。これらを修行と考えて、毎日継続することで、私は心身共に健康を保っています。
罪についてばかり考えていると、何事も悲観的な見方に傾きがちになります。読書やヨーガをしたり、日記や手紙を書いたり、敢(あ)えて事件以外のことを考えたり、あるいは何も考えずリラックスする時間を作ったり、ラジオから流れる音楽に耳を澄ませたり、頭を切り替えて過ごすことで気持ちのバランスを取るように努めています。
二度と同じ過ちを繰り返さないように、謙虚な気持ちで一生懸命生きて行けば、きっと周囲の人も応援してくれるでしょう。現実がどんなに厳しくとも、夢や希望、理念を忘れずに決して諦めないことです。絶望の中でも、真の優しい思いやりを感じることができたら立ち直れます。
様々なハードルをクリアする為には、たった一人で良いから、骨身に染み入る情熱を注ぎ、どのような時も支え、見守ってくれる存在が必要だということを、世間の人たちにも理解してほしいと思います。本人の意志と周囲のサポートによって、将来に向けて不断に人間性を更新することが可能になるのです。
物理的にも心理的な面においても、最終的に安心をして帰属できる居場所がある人とない人とでは、心の向きが違ってきます。何人にとっても、絶対的な愛情を超えるものはないですから。情報が溢(あふ)れ、時間に追われる日常の社会生活から隔離され、今まで当然のように接触していた人が物や情報を遮断することで、初めて見ることもあります。
孤独の中で、落ち着いて心静かに自己の内面を見詰め、心の奥底にあるものについて考える時間を持つことは、有意義なものだと痛感しました。物事は、終わらなければ始まらないこともありますし、望まなければ叶(かな)わないのです。自分の身の上に起こった嫌なこと、悲しいことは結局、時間とさらなる良い出来事で埋めていくしか方法がありません。
私は勾留中に、たくさんの手紙を受け取りましたが、一番多い質問は、取調べでなぜ黙秘したのか、というものでした。
私は黙秘する意志を表明してからも、連日狭く薄暗い部屋に呼び出され、朝から夜まで長時間の取調べを受けました。取調べでは通常、供述調書を作成します。大抵の被疑者は、刑事や検事の巧みな誘導尋問に引っ掛かり、捜査機関が想定した筋書きに沿った、供述調書という名の取調べ官による主張作文に署名することになります。
特に否認事件の取調べは、イジメやリンチに近いものがあります。取調べを受けている段階では、被疑者は勿論(もちろん)のこと、弁護人にさえ捜査記録は一切開示されません。被疑者は、逮捕、勾留というショックを受け、絶望と不安に苛(さいな)まれ、無気力になったり、自暴自棄の状態に陥ったりして、心も体も荒(すさ)んできます。おぼろげな記憶を頼りに、判断能力も思考力も低下した不安定な精神状態で、執拗(しつよう)に質問を繰り返され、詰め寄られたら、取調べ官の意のままに供述調書が出来上がり、それが裁判で証拠となってしまいます。
取調べ室という特殊な状況の下においては、被疑者にとって不利益な、真実ではない内容の調書を作成され、署名してしまうということが、普通の人が考えているよりずっと簡単に起こりうるのです。
「自分を守る最善の方法は黙秘である」木嶋被告手記 5
人間の過去の記憶は、それ程正しいものではありません。勘違いや思い違いをすることもあります。人が遭遇する出来事や言動は、合理的に説明できることばかりではありません。経験した全てのことを覚えている訳でもありません。数カ月、数年前の出来事や情報を、正確に記憶の中から引き出せる人の方が少ないでしょう。
忘却の彼方(かなた)にある曖昧模糊(あいまいもこ)とした記憶を、手探りで思い出しながら話をしていくと、以前伝えたことが間違っていたことに気付くことも、当然のごとくあるものです。
でも、取り調べでは供述調書を作成していたら、裁判でも訂正をしても、検察側に、今まで話していたことは嘘(うそ)だ、あるいは調書の内容こそ本当だ、矛盾している、信憑(しんぴょう)性がない、と揚げ足を取られます。裁判ではその調書を、鬼の首でも取ったように、自己矛盾供述だなんだかんだと検察側は責め立てます。調書を作ることは、検事を喜ばせ、難癖をつける恰好(かっこう)の材料を敵に与えるだけなのです。
一方で、被害者側の供述調書は、捜査機関が親切を尽くして、資料を見せながらヒントを提供し、懇切丁寧に指導して、間違いや過不足があれば何度でも作成し直しています。同じ人物から同じ件について、繰り返し事情聴取し、調書が練り直されていくトリックの過程は、開示された膨大な刑事訴訟記録を読んで、よくわかりました。
逮捕された者が、落ち着いて証拠書類を見ながら事実関係を確認し、記憶の整理ができるのは起訴された後なのです。事件の性質や弁護方針にもよりますが、私個人の意見として、真実を元に裁判を受ける為には、供述調書を作成すべきではないと確信しています。取り調べで黙秘を貫き通す為には、弁護人のしっかりしたサポートが不可欠です。
密室で取調官に囲まれ、長時間詰問される取り調べの凄(すさ)まじい実体は、一般の人には想像を絶するものでしょう。被疑者としての自分を守る最善の方法は黙秘であると、裁判を終えた今でも、強く感じています。全ては法廷で明らかにすれば良いのです。
昨今、取り調べの可視化が議論されているようですが、今回の裁判を経験し、取り調べの録音録画をすることで、果たして取り調べ状況が変化するのだろうか、と素朴な疑問を持ちました。それは、検事が法廷で恥ずかしげもなく、大声を張り上げ、とても正気の沙汰とは思えない、冷静さを欠いた威圧的な言動を繰り返す様子を見て、検察は正義を取り違えていると感じたからです。
検察は真実を解明したい訳ではなく、自分たちが作った筋立て通りのストーリーを押し付けたいだけで、それを認めさせることが正義だと思い込んでいるのです。そのような在り方を、正しいと信じている検察は、これからも、自分たちの主張が通るまで手段を選ばず、強引な誘導により罪を認めさせ、検察に都合の良い調書を作り続け、被告人を陥れるのでしょう。
被疑者の人権を守り、適切な取り調べを行うには、弁護人を同席させるより外ないと思います。現実的にそれが困難な現状では、黙秘権を行使するしか、自分を守る手立てはありません。
しかも現状の取り調べは、黙秘する被疑者を朝から晩まで取調室の椅子に縛り付け、脅迫を続けるという我慢比べです。警察や検察にも、それが正しいものかは別として、正義感と信念を持って仕事をしているのでしょうから、被疑者を取調室に呼び出すことは、当然だと思います。
しかし、被疑者が黙秘の意志を表明し、暫(しばら)く説得しても話さなければ、その日の取り調べは速やかに終了すべきです。起訴まで時間の許す限り取調室に拘束することは、人権を踏みにじる行為だと思います。そのような取り調べによって真相が究明されたり、正しい供述調書が作成される可能性は、極めて低いでしょう。
私は、全ての取調官を非難しているわけではありません。埼玉と千葉で、私の取り調べを担当した検事と事務官は、全員男性でとても紳士的な所作で対応してくれました。仕事ぶりも真摯(しんし)で、2組の検事と事務官にはシンクロニシティ(偶然の一致)を感じたことが、衝撃的な印象として残っています。
埼玉の検事は、魂と性と文学について熱く語り、心の在り方について考えさせられ、その後、私が覚醒するひとつのきっかけとなりました。千葉の検事は、クラシック音楽と美術に精通した、礼節を守る男性で、芸術を通し検事の思いを察しました。
ただし、取り調べは誰が相手であっても決して愉快なものではありません。二人の検事は、取り調べの為に警察署に日参したり、その他諸々(もろもろ)、いささか過剰な演出が見受けられましたし、彼らが持っている正義は、検察として共通のものでした。公判を担当した○○検事は、法廷で初めて会いましたが、特に関西方面の人たちから、○○検事の取り調べがいかにひどいものであるかを教えてもらいました。○○検事に代表される検察の在り方は、改善されるべきだと思います。
「性について最小限の事実を正直に証言」木嶋被告手記 6
裁判が始まってから一番反響が大きかったのは、私が法廷で性的な話をしたことです。私の個人的な生活において、食と性が一番のプライオリティー(優先順位)を持つものでした。
私を理解していただく為には、性についての話題は必然的なものですから、法廷では必要最小限の事実を、正直に証言したというだけです。私は情事に対して、極めて真剣に私の流儀で取り組んできました。真意が伝わらなかった点は不本意です。社会の共感が得られなくとも、法廷では自由に陳述できると許されなければ裁判の公平さは保たれないと思います。
3月13日の法廷(注・最終弁論)で、弁護人の最終弁論を聞きながら、私は涙が溢(あふれ)れて止まらなくなりました。胸がいっぱいになり、被告人の最終陳述は涙ながらできちんと話せませんでした。この時私は、浄化されつつある自分を感じたのです。私はかなり長い間、涙を流して泣くという行為を忘れていたことに気付きました。私はまだまだ成長できると感じた瞬間でもありました。
事件に関して、正誤を糺(ただ)すべき点については法廷で話しましたので、ここでは司法の範疇(はんちゅう)から外れる事柄についても触れました。社会を震撼(しんかん)させたといわれる事件の加害者として嫌疑をかけられた人間が、何を考えてきたのかを、明らかにしておく責任があるのではないかと思ったからです。
突然面会に来る人が少なくはないのですが、そのような申し入れは全てお断りしています。何の信頼関係もない無礼な人と会うつもりは、今後も一切ありません。今回は、判決まで沈黙を守るようにしてきました。丁寧なお手紙を下さった方に対しても。御連絡を差し上げることなく、礼儀知らずな応対になってしまい、申し訳なく思っています。
裁判の傍聴を、まるで観劇と勘違いし、殊更に容姿批評を様々な媒体で広範にばらまかれる言葉の暴力には、茫(ぼう)然としました。
外見の評価にばかりこだわる感覚は、私にとって抵抗を感じるものです。木嶋佳苗が法廷でこんな服を着ていた、こんな表情だった、こんな振舞(ふるまい)をしていたとインターネットに揶揄(やゆ)的な内容の書き込みをする人たちは、幸せなのだろうか。世間と同調することで、普通を確認しながら生きる人に、自分はあるのか。他人を誹謗(ひぼう)中傷するあなたは、どれほど立派な人間なのでしょう。
私の過去の人生を取材し、虚実綯(な)い交ぜにして報道するマスメディアは正義なのだろうか。倫理はどこに存在するのでしょう。マイナス感情の共感をエネルギーにして連帯感を持つ人たちには、薄気味悪さと寂しさも感じました。陰で悪口を言い合い、嫉妬を原動力に大袈裟(おおげさ)に褒め合い、他人をけなす、さもしい根性、女子特有のいやらしさに、私は馴染(なじ)めません。
周囲の風潮に迎合することでしか仲間でいられない大多数の人たちの人間関係も、いびつなものに感じられます。インターネットの普及と個人情報保護法の影響で、人間関係が稀薄(きはく)になり、人と深く繋(つな)がることを苦手とし、真に成熟した大人が少ない世の中になっているようです。
百日裁判と呼ばれた私の裁判員裁判は、ストレスフルなきついスケジュールであったけれど、準備期間も含めて、成長の手応えも大きい、貴重な得難い日々でした。身に覚えのないことで起訴されたり、見当違いも甚だしい解釈や虚偽の報道により誤解をされたり、他人に物事を正しく理解してもらうことは、大変なのだと実感しました。そして、罪や正義は、時代や立場によって変わる相対的なものだと知りました。絶対の常識や正義はないのでしょう。
逮捕されてから2年半以上経過しましたが、今までお世話になった9名の弁護士の先生方、特に公判まで弁護団として熱心に弁護活動を続けて下さった五名の弁護人には深く感謝しています。過分の御高配を賜(たま)わり、厚く御礼申し上げます。
学者肌で人格者の主任弁護人を筆頭に、皆大変に真面目で優秀であり、人として尊敬できる弁護士さんと出会えたことで、自分の間違いに気付きました。世事に疎い私は、弁護人との対話により、蒙(もう)を啓(ひら)かれることが多かったのです。
副主任弁護人とは21年に報道されて以来の、一番長いお付き合いになりました。弁護団の中では、中間管理職のような立場で働き、私の家族との連絡役としてもご面倒をお掛けし、いつもお手数ばかり煩わせてしまいました。何時も冷静に、素敵(すてき)な低音ヴォイスで淡々と語り掛ける先生の「わかった」という相槌(あいづち)に、どれほど心強さと慰めを感じたかわかりません。
先生は2年半、一度も声を荒らげることも、愚痴をこぼすこともなく、誰の悪口も言いませんでした。ひたむきに勤労する、高潔な先生の姿勢から、私は多くのことを学びました。
家族には、非常に迷惑と心配を掛けたにもかかわらず、支援を続けてくれた懇情を誠に有り難く思っています。多くの方に支えられて、裁判を無事に終えることができました。ご迷惑をお掛けした人たちには、申し訳なく存じ、深くお詫(わ)び申し上げます。
これからは、控訴審に向けて準備することになります。私は、特に長生きがしたいとは思わないけれども、より良く生きたいと考えています。現在の私には、文筆による表現しかできませんので、日々精進を重ね、今後私らしい何らかの形で、思いをお伝えしたいと考えております。そのことで、少しでも世の中の役に立ちたいと願ってやみません。
以上長々と書き連ねましたが、意のあるところをお察しいただければ幸せに存じます。
桜の花びらが舞う春うららかなさいたま拘置支所にて
木嶋佳苗
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