40 :名無しさん@13周年:2013/03/02(土) 20:15:03.72 ID:eqC37BZM0
3,929人が抑留され、328隻が拿捕されたし、その過程で四十四名の方が死傷してしまった。
1953 年1月6日、第二次日韓会談の再開が合意され、予備交渉が1月27日から始まった。
しかし、その予備交渉が始まる直前の1月12日、李承晩大統領が「平和 線」内に出漁した日本漁船の拿捕を指示し、
1953年2月4日には、「李承晩ライン」を侵犯したとして日本の第一大邦丸が韓国側に拿捕され、
漁労長が射殺 されるという事件も発生している。
1953年12月12日、韓国政府は「漁業資源保護法」を公布した。
その「第三条(罰則)」では、「違反した者には三年以下の懲役、禁錮または 50万ウォン以下の罰金」が科せられ、
「第四条」では、犯罪捜査や臨検捜索の権限が認められた。
日本漁船を拿捕する法的根拠が準備されたのである。
つま り、それまでの韓国の漁船拿捕は、韓国の国内法においても取り締まる根拠がなかったのに取り締まっていたわけで、
国際法および国内法に照らしても、不当 だったのである。日韓の正常化交渉はこのような状況の下で行なわれていた。そこで韓国側が外交カードとして使ったのが、拉致した漁民たちである。
「竹島問題」や「李承晩ライン」、個人資産問題で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。
公海上に引かれた李承晩ラインを根拠にして拿捕して、その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使った。
現在、北朝鮮との間で問題になっている拉致問題とよく似たパターンといえよう。
もしこれらの人々を返してもらいたかったら、日本は賠償をしなさい!在日韓国人の法的地位を認めなさい!
あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさい! という外交交渉のカードに利用した。日韓基本条約の交渉過程を見れば、当時の佐藤栄作首相も、以下のように発言したのも納得できるのではないだろか。
「しかも、これは、国際的に見まして、こんなむずかしい交渉はないといわれておる。」
[005/005] 50 - 衆 - 日本国と大韓民国との間… - 5号 昭和40年10月28日発言者232を参照
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「しかも、これは、国際的に見まして、こんなむずかしい交渉はないといわれておる。」
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